YOUNG GIRL ALWAYS THINK ABOUT SOMETHING

世界で一番ダサいブログタイトル。ライブの話や自分の話を長めに書きたくなると突然更新するやつ。

オザケンについて

イエスが復活した!という話を聞かされた弟子たちは、イエスを実際に見て確かめるまでは復活したことを信じられなかった、っていう話があったような。
百聞は一見に如かず、的な?

ブギーバックが始まり小沢健二がいなかった時点で、きっと心変わりの相手は〜の部分で彼は登場するのだろうと思いました。実際そうでした。私の席は端のほうだったので、小沢健二が入ってくる瞬間が見えました。あ、あれが小沢健二なのか、と思った2秒後ぐらいに悲鳴混じりの大歓声が起こりました。そこで改めて、あ、あれが小沢健二なのか、と思いました。あ、あれが小沢健二なのか、と思いながらも納得しきれていないような状態のまま、ブギーバックは終わり。からの、それはちょっと。それはちょっとを歌いながら、私はとんでもない場所にいるな〜と思いました。状況のすごさは理解しつつも小沢健二の存在を理解できないまま、彼は舞台上から去っていきました。

見る行為とは一体何を意味するのか。
ものが見える仕組みはよくわからないけど、おそらく小沢健二という光のかたまりが私の目にうつって、神経から脳に通じてっていうプロセスなんだろう。
あぁ、そういうことじゃ、ないのさ(©びっけさん)。
どうして、そのものを見たら、その存在を信じられるんだろうか。私は逆に、見たことによって、オザケンとは一体なんなのか、わからなくなった。

私はおそらく、脳内(もしくは心の中なのか?よくわからない)に、私のオザケン像を構築していた。具体的にこんな人っていうのがあるわけじゃないけれど、そのオザケンってのはとにかくカンペキな存在で、実在しない感じ。
私はオザケンが実在しないと思い込むことで、オザケンのカンペキさを信じていたんだと思う。オザケンをカンペキなものとして信じ続けるには、きっと私は小沢健二を見てはいけなかったんだろう。

小沢健二を見た時に理解できなかったのは、目の前にいる小沢健二と今まで想像し続けたオザケンとを一致させることに戸惑ったからだろう。
今日、私は小沢健二を見てしまった。小沢健二は人なんだ、小沢健二はいるんだって、帰り道にブギーバックを聞いていたらわかった。腑に落ちる感覚。
今日スチャの舞台で小沢健二は歩いていたし、歌っていたし、なにより思いっきり音をはずしていた(笑)