百聞は一見に如かず、的な?
ブギーバックが始まり小沢健二がいなかった時点で、きっと心変わりの相手は〜の部分で彼は登場するのだろうと思いました。実際そうでした。私の席は端のほうだったので、小沢健二が入ってくる瞬間が見えました。あ、あれが小沢健二なのか、と思った2秒後ぐらいに悲鳴混じりの大歓声が起こりました。そこで改めて、あ、あれが小沢健二なのか、と思いました。あ、あれが小沢健二なのか、と思いながらも納得しきれていないような状態のまま、ブギーバックは終わり。からの、それはちょっと。それはちょっとを歌いながら、私はとんでもない場所にいるな〜と思いました。状況のすごさは理解しつつも小沢健二の存在を理解できないまま、彼は舞台上から去っていきました。
見る行為とは一体何を意味するのか。
ものが見える仕組みはよくわからないけど、おそらく小沢健二という光のかたまりが私の目にうつって、神経から脳に通じてっていうプロセスなんだろう。
あぁ、そういうことじゃ、ないのさ(©びっけさん)。
どうして、そのものを見たら、その存在を信じられるんだろうか。私は逆に、見たことによって、オザケンとは一体なんなのか、わからなくなった。
今日スチャの舞台で小沢健二は歩いていたし、歌っていたし、なにより思いっきり音をはずしていた(笑)