YOUNG GIRL ALWAYS THINK ABOUT SOMETHING

世界で一番ダサいブログタイトル。ライブの話や自分の話を長めに書きたくなると突然更新するやつ。

リバプール行ったよ、その2

リバプールの中華街がよかった。

吸い込まれるぞみたいなそびえたってまっせみたいなデカい門がある、入り口。

でも中に入ってったらお店はちょっとしかない。中華料理屋さんと、たぶん麻雀のお店とか。すぐ終わる中華街。街というか中華道的な。

 

メニューが外に置いてあって値段がわかり、且つ覗いてみてお客さんのたくさん入っていた所をチョイスして入る。

出てきたリブの食べ方がわからない(フォークナイフを使うのか手で食べるのか)。となりの西洋人を盗み見したら手で食べてたので手で食べることにする。西洋人の真似をして中華料理を食べる日本人。しかしそういえばリブって中華料理なのか。中華料理とはなにか。King Do味とかいう謎の甘辛いソース。

 

中華料理って絶対に中華料理だ。たぶん目隠しして食べても中華料理と思うし、食べないで写真だけ見ても中華料理だと思う。触ったらさすがにわからないのかな。音でもわかったらすごいな、炒飯の音とかわかりそうだな。あと五感ってなんだっけ。においか。中華料理の香り、最高。

 

エビチリソース的なのがかかってる唐揚げ的な中華料理が出てきたんです。的なが多いのはわたしの癖です。日本の唐揚げって、日本の唐揚げの味がするし、西洋系のフライドチキンは、フライドチキンの味がするし、中華のこれも、またちょっと違う中華の唐揚げだなという味がします(ソースがかもしれない)。

 

揚げ物というものを生み出した人はすごいと思います。油たっぷりの中に食べ物を入れてみようと、さらにはサクサクした衣ができるように周りになにかをつけてから揚げてみよう、と思うなんて。そんなイノベーション。やばい。

火って食べ物に使えるぞ!あったかくなるし!って気付いた人より、油たっぷりの中に食べ物を入れて火にかけたら揚がることを生み出した人の方がすごいんじゃないかと思う。というか火の発明?発見?って崇められすぎ。全然知らないけど。

 

そして!世界で同時多発的に(なのかどうかは知らないけど)鶏肉を揚げ物にする料理が誕生してるのってやばすぎると思います。思いませんか。料理って不思議。そもそもどの国の人もなにかを食べるのってやばいし、朝昼夜の3回食べるのが大抵の人にとって普通なのもやばい。誰かが広めたのかな。うーん。

知らないからおもしろいと思うことをだらだら書いているのでただの無知を晒しているのですが、おもしろいと思ったことを伝えたかったので書きました。

 

リバプールはおもしろかったです。

リバプール行ったよ、その1

リバプールがめちゃくちゃおもろ街だったので記録します。

まず。横浜みたいでした。海沿いの街で、いかにも赤レンガな赤レンガと、門だけ大きなミニチュア中華街があったので。関係ないんですけど「神戸だと思ってた はじめての横浜」みたいな藤井隆の曲がありましたね。さらに関係ないんですけど関係ない話を挟むことが私は好きです。

このブログの目的はTATEリバプールについて書くことではないのですが、旅の目的はTATEリバプールに行くことだったので、TATEリバプールについてもさらっと書かねばならないと感じ、今からTATEリバプールについてさらっと書くことにします。どうせさらっとした文にならないことは今からわかってるんですけど。ちなみに今回の旅はパイセンにお誘い頂いたものなのであります。嬉しいことであります。

さて、もうそれはそれは時間をかけて英語を読んで、なんなら絵を見た時間より解説の解読していた時間の方が長いんじゃないかというぐらいの感じで、でも後半は駆け足だったので解説はざっと見つつ作品はしっかり全部見るような、そんな回り方をしました。電子辞書持ってきたら良かったなと思いました。

続いて、面白かったことを箇条書きします。

・やっぱり曇った国のPIPERの絵は色使いとか雰囲気が暗くて、晴れた日に見たらちょっとつまらなかったです。でも翌日曇ってる日に見たらなんだか納得できました。しかしピカソとかミロの色使いの方が私は好きだなぁと思った。晴れてる国出身で色使いやらなんやらが明るいからなのか、私がスペインに馴染みがありすぎて好きすぎて小さい頃にいちばん見ていたのがその辺の絵だからなのか。どうなんでしょう。よく考えたら日本の昔の絵にも私はあまり馴染みはないし全然知らないから、例えば日本系の絵を今見にいってもそこまでなにかを感じないかもしれないですね。逆に、北斎のトートを持ってる中国人のお友達がいたり、大英博物館のカフェのカップの柄が北斎だったり、私より海外の方がそういう日本の絵に馴染みがあるのではないかと思うぐらい。いや「海外」でくくるなよ、それから「私」と「海外」を比べるなよ。うーん、でも、かといって、小さい頃によく見た馴染み深いものが完全に好き嫌いを決定しちゃう、影響を与えちゃうのか、と言われたら、そうではないといいなぁと思いますよね。キボンヌね。だから、今からPIPERの絵の雰囲気とか、ザ日本みたいな絵を好きになれるような人生でもいいのになと思います。かといって、「小さい頃からの馴染みが好みを決定する」を拒否するというただそれだけのために、直観(直感?)的に好きではない!と一度感じたものを努力して好きになろうとするってのもちょっと違うよね。バイアス〜〜。
(因みに馴染みが好みを決めるのか問題に関連してもう一つ。私が美術館に行って、これ好き!これそんなに何も感じない!を決める要因として無意識的に重視しているのは、その作品自体の色とか形とかより、「こういう意図で作られてまっせ〜」部分かもしれない、なので、馴染みとかってやはり関係ないのかも。でも、この要因はチョッカン的な好き嫌いの話とはきっとズレるので、色使いなどのチョッカン的な好き嫌いは、やっぱり小さい頃の馴染みと深い関係にあるかもしれないと思いました。音楽の好みでも言えそうですなこれは。)

・This Is Offalという映像展示がもう爆裂に最高におもろかったです。誰のせい!それはあれだ!夏のせい!って感じ。うそうそ。いやしかし、自分自身が何によって構成されてて自分の選択の責任が自分のどの部分にあるのか、っておかしな話だな。脳と精神って同義なのかしら、とかとか。手足は脳に完全に従ってんのか、とかとか。それから、個人単位だけじゃなくて、もっと大きな単位での責任のバショ的なテーマもあったんだろうな、すごいね、面白いね。あと、詩、映像、アート、とか色々なものが混ざっている作品なのもポイントでしたね、日本映画の授業で言ってた「sogo geizyutsu」のことを思い出しました。思い出しただけでなんだかいまいち理解はできてないけど。

この2ポイントが特にポイントですね。ポイントって言いすぎね。

はい。ちょっと書いていて飽きてきた。
TATEリバプールについてはさらっとのつもりだったのですが、長くなったので、いったん終わりにします。もっと書く予定だった話は第2弾でよろしく。ではまた。

20151229ソウルセット

ソウルセット終。かっこよかった。魂って感じだった。年末って感じだった。すぎぞーって感じだった。ずっとひゃーって言い続けて終わった。

ビッケさんの声もシルエットも裸足も動きも全部かっこよかった。今日は叫びみたいなコーラスもたくさん聴けてうほうほだった。久々に俊美さんの御姿を拝んだけれどやはり宇宙一麗しいし、今日はノリノリで変な踊りしてたのがかわいかった。私の中ではソウルセット時無口を貫くイメージのかーなべさんが「間違ってない」って言葉を発した事件、そしていつもより笑顔だった感。

アンコールでホフディラン+俊美ビッケのヤードと、まさかの長澤まさみイノセントラブ、夢みたいだった。寝る前にすぎぞーと森進一を思い出すんだろうな。俊美さんが「森進一の時俺が一番笑ってたからな」って主張してたの、かわいかったね。

自分の死がこわいことを知り始める時期、自分の死よりも他人の死の方がこわくてたまらない時期、再び自分の死を意識し始める時期があるんだろうな、みたいなことをぼんやり考えた。ここ1年ほど忘れてたけど、一緒に年を重ねたかった〜的な嫉妬を久々に発症した。1968年あたりに生まれていたかった。自分だけ(どんな集団において”だけ”なのかはわからないけど)生き残っちゃいそうでなんかこわい。

ソウルセットはネガティヴな中にポジティブさがあって、暗いのに前向きで、そういうところがリアルだしLIVEとかLIFEって感じがするし好きだ。今日はライブ中に高校時代のことを色々と思い出して、ソウルセットは私の青春だったことに気づいた(いや、いまだに青春真っ最中だけどな!)。とにかく、ソウルセットは私の青春のバイブル感、あるよな!

そう、バイブルといえば、ベイビーの「ソウルセットは神様」発言ですよ。3人が互いに干渉しないけどなんだかんだ同じくくりでやっている雰囲気、3人でひとつの神って感じかも、三位一体的な、なんて。太陽のこととか愛のこととか歌って世界や人生を賛美して?る感じとか、ソウルセットを拠り所に生きている人たちがいて、確かに宗教っぽさ?まあ誰でもなんでも誰かの神にはなりえるのかもねん。とか言っちゃうと神の意味が軽くなるからなんかアレですが。

ビッケさんの発言について覚えときたいのは以下の2点。うろ覚えで曖昧だけど。
・そーるせっとが神っていう件について「もしそうなら、神って思ってたほどすごくねーな」的な発言
・ホフがヤード終わりに「そーるせっと!」って紹介を言おうとした時の「そういうことしないでやってきたのがサブカルじゃん」発言


よいお年を!

オザケンについて

イエスが復活した!という話を聞かされた弟子たちは、イエスを実際に見て確かめるまでは復活したことを信じられなかった、っていう話があったような。
百聞は一見に如かず、的な?

ブギーバックが始まり小沢健二がいなかった時点で、きっと心変わりの相手は〜の部分で彼は登場するのだろうと思いました。実際そうでした。私の席は端のほうだったので、小沢健二が入ってくる瞬間が見えました。あ、あれが小沢健二なのか、と思った2秒後ぐらいに悲鳴混じりの大歓声が起こりました。そこで改めて、あ、あれが小沢健二なのか、と思いました。あ、あれが小沢健二なのか、と思いながらも納得しきれていないような状態のまま、ブギーバックは終わり。からの、それはちょっと。それはちょっとを歌いながら、私はとんでもない場所にいるな〜と思いました。状況のすごさは理解しつつも小沢健二の存在を理解できないまま、彼は舞台上から去っていきました。

見る行為とは一体何を意味するのか。
ものが見える仕組みはよくわからないけど、おそらく小沢健二という光のかたまりが私の目にうつって、神経から脳に通じてっていうプロセスなんだろう。
あぁ、そういうことじゃ、ないのさ(©びっけさん)。
どうして、そのものを見たら、その存在を信じられるんだろうか。私は逆に、見たことによって、オザケンとは一体なんなのか、わからなくなった。

私はおそらく、脳内(もしくは心の中なのか?よくわからない)に、私のオザケン像を構築していた。具体的にこんな人っていうのがあるわけじゃないけれど、そのオザケンってのはとにかくカンペキな存在で、実在しない感じ。
私はオザケンが実在しないと思い込むことで、オザケンのカンペキさを信じていたんだと思う。オザケンをカンペキなものとして信じ続けるには、きっと私は小沢健二を見てはいけなかったんだろう。

小沢健二を見た時に理解できなかったのは、目の前にいる小沢健二と今まで想像し続けたオザケンとを一致させることに戸惑ったからだろう。
今日、私は小沢健二を見てしまった。小沢健二は人なんだ、小沢健二はいるんだって、帰り道にブギーバックを聞いていたらわかった。腑に落ちる感覚。
今日スチャの舞台で小沢健二は歩いていたし、歌っていたし、なにより思いっきり音をはずしていた(笑)