YOUNG GIRL ALWAYS THINK ABOUT SOMETHING

世界で一番ダサいブログタイトル。ライブの話や自分の話を長めに書きたくなると突然更新するやつ。

並行世界と間違いと肯定

私は「並行世界」に思いを馳せがちである。東京都心はパラレルワールド。わたし、遠い未来にあなたとまた出会うでおなじみそうせきです。

小沢健二の『流動体について』という曲の次のようなフレーズがある。

 

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の僕は どこらへんで暮らしているのかな
広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

 

「間違い」という非常にリアルな重みのある断言的な単語から、急に「並行する世界」という曖昧で現実味のないところにワープするというギャップが、可笑しく不思議な歌詞である。「間違いに気がつくことがなかったのなら?」という表現からは、いつかのタイミングで、彼は間違いに気づいた、ということが言えそうだ。そうして、気づいた結果、今の道を選択しているのだろうと考えられる。となると、今現在は間違っていない、正しい世界にいる、ということになる。

この歌詞においては、人生の中にはっきりとした正しさ、間違い、といったものが存在するということになるだろう。

にもかかわらず、彼はふと「並行する世界の僕」について考えているのだ。それは、<正しい今>と比べて、間違っているかもしれない、失敗してしまった世界として想起されるのだろうか?

私は、決してそうではないと思う。この「並行する世界の僕」は、ただただ「並行」している世界に過ぎず、そこには間違いも正しいも、何もないのだと思う。フラットな気持ちで、ただ、ふと思い返しているにすぎない、と思うのだ。

むしろ、「間違い」という単語によって、明らかな正しさが存在する可能性を示唆してしまったことを弱め、結局絶対的なものなんてないのだ、と思わせる効果がある。つまり、ここで並行世界に思いを馳せることは、そもそも間違いや正しさなんてどこにもないのだ、と、すべてを肯定する役割を果たしているのではないかと思う。


このように並行世界に想いを馳せる歌詞は多く存在する。例えばPUNPEEというラッパーの『P.U.N.P.(Communication)』という曲の歌詞は、先ほどの小沢健二のものとは逆方向からの視点でそれを描いている。

 

これなきゃ何やってたんだろうな
どこかで間違ってたんだろうな
いやどこかで間違ってこうなって今君とはなしてる
あそっか

 

「間違い」という言葉を用いて並行世界に想いを馳せる展開は先ほどの小沢健二と一致するが、PUNPEEの場合は「今」の方が「間違ってこうなっ」た結果である、としている。

しかし、そのあと続く「今君とはなしてる」は、私の解釈では、決してネガティブなものではない。まず、「間違って」というネガティブな文脈、状況の中で「君とはなしてる」というのは、「出会わなければよかった」というような意味として解釈できる。しかし、この歌詞ではおそらく、「君」と信頼関係があった上で、「君」との出会いや「君」と今こうして話していることを茶化すことにより逆説的に肯定、祝福するような意味あいが込められていると感じる。いわば照れ隠し的な、信頼の上で皮肉的に肯定している構図が見て取れる。(このような歌詞の作り方、何より、色々あった上で訪れている現在の状況のメタファーとして「今君とはなしてる」という状況を用いる表現は非常に美しくセクシーだと感じる。PUNPEE好き〜)

さらに、最後の「あそっか」という、とぼけた感じのする4文字も、非常に大事な役目を果たしている。この「あそっか」は、何に対する気づき、納得なのだろうか。間違って訪れたのかもしれない今、君と話せているということは、間違ってここにきてしまったけれど、別にそれで悪くはないな、と「今」に対して納得したことを表しているように私は思う。このように、小沢健二とは逆方向から「間違い」や並行世界を捉えたPUNPEEの歌詞もまた、結局は、現状も、そうではない可能性も、すべてまとめて肯定するようなニュアンスを感じるものである。

 

さらに紹介したいのは、小沢健二の様々な曲にインスパイアされたと私が勝手に思っている、SHE IS SUMMERの曲だ。

 

 新しい恋人ができて 思い出は救われてく
 生きた日々は重なり ふたりを結んでいく

 

『エンドロールの先を歩く』というタイトルの曲の一部だ。このタイトルは、一度終わったと思われる物語にも、さらなる先がある可能性を示唆している。

ここでは、例えば、「新しい恋人」というワードがでてくる。一見「今の恋人」を否定し、いつか訪れる別れを予見させる寂しいもののように思われる。しかし、それが「救い」になり、今の恋人と共に生きた日々も、もしかすると新しい恋人がかつての恋人と生きた日々も、重なって、また新しいその先の物語が生まれるのだ、と肯定していく。

この歌詞に出てくるような世界は、時系列として今と並行とは言えない。しかし、このような「物語が終わらなかった可能性」(もしくは終わった可能性、か。これも「間違い」なのかもしれないね)という、まるで現在と並行するような未来も、一種のパラレルワールドだろう。ここではそんな未来がポジティブに捉えられているのだ。

 

並行する世界、過去の選択を今とは違うものにしていた場合の今、について、我々はしばしば想起し、後悔したり、逆に今を正当化したりする。誰かを責める時にも、「あの時ああしておけばよかったのに」とつい言ってしまったり、「たら」「れば」で話すと不幸になるよ!といったセリフをよく耳にしたりする。しかし、フラットな気持ちで、全く違う選択をしていた場合の私についてぼんやり考えてみることは、素敵な行為だ、と思う。ぐちゃぐちゃに悩んでしまったりもする今からのエスケープであり、また、それによって、結局は「完全な正しさなんて存在しないな」という真理に気づかされるのではないだろうか。

 

 

言ってみりゃ、並行世界に想いを馳せることと、今、同じ時を過ごしている誰かについて考えるのも、ちょっと似たようなものかもしれない。そんなことや、オザケンのこと、そしてホフディランの『TOKYO CURRY LIFE ~邦題・東京カレー物語~』みたいな話は、またいずれ。

街中でつづいてく暮らし。